全国災対連ニュース №67

 全国災対連ニュース 2010年11月4日 №67
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 中越大震災の被災地 山古志の再生に学ぶ
  被災地復興推進交流集会で講演・報告


 全国災対連主催・新潟県災対連共催による「2010年被災地復興推進交流集会」が10月30日~31日、新潟県長岡市山古志会館で開かれ、地元の新潟をはじめ、東京、兵庫、群馬、岩手から65人が参加しました。今回の交流集会は、”限界集落”へ進行する中山間地にあって「震災復興基金」を活用し、創造的に地域復興に取り組んでいる中越大震災の被災地山古志の経験に学び、被災地の政策を策定する際に役立てることを目的に開催されました。
 集会に先だって10月30日午後、参加者たちはマイクロバスで山古志の被災現場を回り、中山間地型復興モデル住宅、東竹沢の大崩落跡、木篭集落の水没した家屋などを視察しました。
 午後3時30分から1日目の集会を開会し、大黒作治全国災対連代表世話人(全労連議長)があいさつ。「21世紀に入ってから、中越大震災、中越沖震災、岩手・宮城内陸地震災害と、中山間地で震災が起きている。山古志では、基金制度によって復興が進められ、目に見えない財産が生まれた。来春は一斉地方選挙があり、支援法見直しの節目の年でもあるので、力を合わせて取り組んでいきたい」と述べました。
 「中山間地を襲った中越大震災」のDVDが上映された後、「震災からの復興で復興基金事業の果たす役割」をテーマに山古志支所長の斉藤隆さんが特別講演をしました。
 「災害対策-それは1人の死者も出さないこと」斉藤支所長が特別講演
 斉藤支所長は、「復興基金は震災後、現行制度にないものをどう補っていくか、各自治体が必要としているメニューを提案して作った。山古志村(当時)では、集落をどう発展させるかを重視し、暮らしの中で体にしみついている風や土の持つ力を再生させようと考えた」と述べました。
 そのうえで、震災後に事故や過労で自分の同僚や、同級生の父親が亡くなった事例にふれ、「家族や同僚が命を落とし心の傷を癒せない人や、辛くて山古志を出て行った人がいっぱいいる。旧山古志村の震災による直接の死者は2人で比較的軽かったといわれるが、死者の数が問題ではない。災害対策とは何か、それは1人の死者も出さない対策だろう」と訴えました。
 「復興事業基金」で被災地の要望に柔軟な対応
 講演の後、新潟県災対連の宍戸末雄事務局長が「基金の背景」を次のように説明しました。
 「行政の復興事業は、1か所40万円以上でないと適用されないなど制限が多い。棚田の修復は20万円で出来るところもある。そうした隙間を埋め、柔軟に対応する制度。県が銀行から3000億円を借り入れ、これを原資に復興事業基金(財団法人)をつくり、利息を運用して10年で600億円の事業をおこなう。銀行への利息は国が交付税で手当する。この基金によって、自治体は独自の判断で動けた。山古志では人口が減少したとはいえ、集落再生に果たした意義は大きい」
 集落再生に取り組む団体が発言
◇産直の食堂「多菜田」を始めた=リーダーの五十嵐なつ子さん
 昨年(2009年)12月16日に小さな店をつくりました。①支援へのお礼をしたい。元気になった姿を見てもらいたい、②牛の角突き、錦鯉、カブラナンバンという山古志ならではの特色を生かす、③かあちゃんで出来ることをやる、ということでした。それは、食べることだということになり、新鮮な野菜を使った農家レストランを県の復興事業の一環として始めたのです。4人で立ち上げたのですが、5年間は続けなければならないので、あと3年楽しく頑張り、若い人にバトンタッチしたい。なごやかなお茶飲み場、とうちゃんの「赤ちょうちん」もと思っています。
◇小千谷市塩谷で集落再生に取り組む=「芒種庵を創る会」事務局長の関芳之さん
 地区は集団移転で42戸から20戸に半減しました。2007年7月に「夢を語る会」をつくり、花を植える活動が続いています。地震で全壊し、取り壊される予定の家を残して、だれでも集まれる場所にしようと話し合い、「会」をつくりました。いま80人以上のボランティアで成り立っており、親睦を深めています。子どもたちが社会人になるので送る会を開いたところ感動的な会になりました。模索状態ですが、村の人を信頼していくことが大切だと思っています。
◇川口町で集落営農を取り組む=ファーム田麦山代表の涌井清嗣さん
 震源から6キロの所で圃場(ほじょう)をつくりました。川口町は2005年1月に再建のためのプロジェクトチームを作りました。JAの職員だった自分は、田麦山で集落営農をやろうと呼びかけました。最初は「成功したためしがない」「出資金が集められない」などの声がありましたが、23戸が参加して設立。12ヘクタールを耕作し、直接販売をしています。
◇水没集落木篭地区の取り組み=区長の松井治二さん
 自分たちでやるべきことをやらなければと「ふるさと会」つくっています。地震で山が崩れ、川がせき止められて集落が水没しました。70人がヘリに吊り上げられて長岡に行きました。そしてまた村に帰ってきました。帰った姿を見てくれれば、日本中の人とつながり、日本を見直してくれるのではないか。それぞれの判断で村を出た人もいますが、再生ようと帰ってきた人が互いに語らい一緒にやることで、村をよみがえらせることになるのではないか、と思っています。        
 交流集会に寄せられたメッセージ
 交流集会2日目は、10月31日午前9時から再開され、冒頭、交流集会に寄せられた次の方々のメッセージが紹介されました(順不同、敬称略)。
  参議院災害対策特別委員長(民主党) ツルネン・マルティ
  衆議院議員(日本共産党)      高橋千鶴子
  参議院議員(日本共産党)      山下よしき
  参議院議員(日本共産党)      井上 哲士
  自由民主党シャドーキャビネット防災担当大臣
    参議院議員             長島 忠美
  国民新党幹事長            下地 幹郎 
 都会と中山間地をつなぐ「ふるさと回帰」を
 2日目の特別講演は、「山の暮らし再生機構」スタッフ・前山古志支所長の青木勝さんがおこない、次のように訴えました。
 「日本人は33万ヘクタールの国土に1億2700万人が住んでいるが、面積の7割は中山間地だ。戦後50年間かけて都会が過疎地に投資して、社会資本をつくってきた。この投資を生かして、年を取ったら都会から帰って、生き生きと安全に暮らせるのが中山間地ではないか。中山間地は都会の関与なしには守れない。里山は一番暮らしやすい。人々は裏山を活用して生活してきたが、今は手が入っていない。そのため、雨が降ると山が崩れてしまう。人間がいったん自然に手を加えた以上、放っておくと自然は報復する。集落が『安楽死』することはあっていいが、できるだけ長生きさせて歴史と文化を生かしたうえで、どう死んでいくかだ。60歳からの社会活動の場として、都会→ふるさと→都会というケースも含めた、ふるさと回帰をすすめていきたい」と訴えました。
 被災各地からの報告
◇中越沖震災の被災地=柏崎災対連の五位野和夫事務局長
 今後の課題は、①被害認定の判定方法について、全壊、大規模半壊、半壊、一部損壊という区分けでよいのか。区分の差で不公平感や判定者への不信感が出ていて、見直しが必要。②支援金を生活再建できる金額に増額し、再建方法を被災者にまかせる。貸し付けでなく渡し切りが求められる。
◇阪神淡路大震災被災地の長田区=森本真神戸市議
 ①1996年3月17日に始まった区画整理事業が今夏完了した。広い公園は出来たが人は戻っていない。②再開発地域は、40棟の建設計画が30棟で挫折。商業区画の半分はシャッターが下りたまま。③災害援護資金を返済出来ないことが問題になっている。④災害復興住宅の減免制度が改変され家賃が値上げされる。こうした困難な状況があるが、市民が始めた「鉄人」や「三国志」プロジェクトは成功し、国内観光客が増えたり、中国との交流がすすむなど話題を呼んでいる。
◇岩手・宮城内陸地震被災地=一関民商の小野寺喜久雄さん
 いまだに災害の規模が把握されていない。被害度判定、義援金の配分額などで災対連とともに内閣府と交渉して、被害度認定では一定の改善もされた。運動をしなければ何も変わらない。
◇新潟大震災の被災地=新潟県災対連の宍戸末雄事務局長
 新潟県は第3期復興計画を立てて10周年を過ぎても持続的に進める。柏崎では、5年で120億円の基金が枯渇している。耐震化も進んでいない。そうした中で復興基金は役立っている。
◇三宅島噴火被害=平川大作三宅村議から、台風14号の影響で船便が欠航し、出席出来なかったため「帰島から5年・本格復興をめざして」とのリポートが届けられました。
 討論・報告の後、全国災対連の中山益則事務局長が「支援法第3次改定に向けた秋の行動提起」をおこないました。(全国災対連ニュース66号で既報)
 最後に、住江憲勇全国災対連代表世話人(保団連会長)が、交流集会を準備した新潟のみなさんと参加者に、ねぎらいと感謝を込めた閉会あいさつを述べ、すべての日程を終えました。